FC2ブログ

♭AKIHOフェチ♭

Domina AKIHOのblog

極妻好き

昔『極道の妻たち』がどれだけいい映画で女が見習うべき生き様がたくさんあるのだと私に滔々と語る男がいた。
その頃はこ難しい映画ばかり見ていた私は、正直『極妻』なんて、趣味悪いと思っていた。

社会の犬になりたくないんだと言って授業にも出ずに遊んでばかりでうらぶれてはいたものの、今はなんだかんだで立派になった彼は数少ない私の悪友。でも今ではその趣味は悪くないと思うのです。

音楽の趣味も、女に弱さを見せるタイミングの良さも腹立たしいほどに良かった。
時折見せる悲しい顔がまた良かった。
今となっては絶妙だったなと恐れ入る。

ただただ弱さばかり見せていてはここぞと言う時に効かないものですね。
『極妻』には強いはずの男たちの弱さとそれを裏で支える(支配する?)女性像がどの作品にも絶対描かれている、痺れるね。



その後の私はとにかく岩下志摩が好きになってしまった。

これはまた違う映画だけどしびれるね。

映画の中の強いものたちはいつまでも強いしドス黒くってたまりません。




あとね、強い女性に効く、男性の『無抵抗』という芯の強さもあるのですよ。

スポンサーサイト
デリヘルもソープもイメクラも気に入った子がきっと見つかる
超大型リニューアル中の大好評風俗情報サイト!
FC2公認の男性用高額求人サイトが誕生!
稼ぎたい男子はここで仕事を探せ!
  1. 2013/11/21(木) 00:12:37|
  2. シネマの抜き足差し足忍び足
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:6

ロングバケーション

今更ではありますが、そう、あの一世風靡の1996年の月9ドラマです。

かなり好きだったのですが、実は半分ちょいしか見れてませんでした。
それでも初回と途中をとばしとばし最終回は見たので大筋は覚えていた。なんとなしに、また見たくなってDVDボックスを入手したものの、ずっと見れてませんでした。
というのはどうせ見るならノンストップで一気に見たかったので。といっても567分もあります。

たまーにやりたくなる連続ドラマ一気鑑賞。

そしてついに、夜12時ごろから朝にかけて一気に見ました。ふらふらしながらも、見れちゃうものですね、最初から最後まで集中力と興味を途切れさせないくらいの面白さだった。脚本も良かったけれど、山口智子の演技がすごく良い。彼女の最高傑作だと思います。キムタクも良かった。

ちょっと思うところがあったので感想をば。



芸大ピアノ科を出たものの、ずっと長くにずるずると時を過ごしていた主人公セナ君(以下キムタク)が、年上女性南(みなみ;山口智子)と出会い、長いお休み[Long Vacation]に決着をつけて、大人になるってストーリー。


誰でも今の自分は猶予中で本気ではなく、いつか理想的な何かが現れたら本気でやるぞ!と思いつつ現実に流され時間を重ねるもの。若いうちはそういった刻が青春の一ページだったりもする。

大人になるためには、人はそれぞれ、自分の中で持ち続けてきたあるものに対し決着をつけないといけません。それに関して主人公は「長いお休みは終わりだ」という言い方をしている。

(ドラマのタイトルの意味が終盤のクライマックス間近でやっと明らかにされました。ぜんぜんバケーションに関係ないじゃんと思っていた謎はここにあった。)

決着をつける対象とは、貧しくとも若者に将来の希望のあった昔は「青春」と呼ばれていたものなのでしょう。現在ではまさに「長いお休み=ロングバケーション」という言葉は確かにしっくりくる。


ドラマを通しで見ていて奇妙なことに気づく。
セナに関しては兄弟両親や過去に関することが一切説明されていない。

出身地さえも。
現在の状況のみが明かされている。

それははセナが【誰も必要とせず、誰からも必要とされない人生】を過ごしてきたということを表している。

対照的なのがヒロインの南。友人、弟、その他いろいろなことが彼女に関しては明示されていて、ヒロインは常に【誰かを必要とし、誰かから必要とされたい】人物として描かれている。


【必要】というキーワードの所在が対照的なセナと南。

二人が交わり、惹かれあい、セナが自分の『長いお休み』に決着をつけ大人として歩み始めるためには何が必要だったのか。

それがこのドラマ『ロングバケ―ション』のテーマである。



物語の始まりは、結婚式当日に花婿に逃げられた花嫁、すなわち【人生で一番必要な人から、一番必要なときに必要とされなくなった】南のシーンから始まります。

必要というキーワードが両極端な二人が絡みあうことで、二人の間にはいろんなドタバタやすれ違いが起きる。

【誰も必要とせず、誰からも必要とされない】セナは、チャレンジせずして諦めることで「長いお休み」に決着をつけようとする。

彼がチャレンジすることで再度自発的に決着をつけるには【必要とする人、必要とされる人】の存在が必要だった。

セナはチャレンジせず、諦めることで決着をつけたのだが、南がそれを阻止する。それは本当に相手のことが好きで、決して見返りを求めず、絶対的に信じている者が行うだろうという形。

ここが、セナが南のことを【必要な人】であると感じた初のシーンだった。主人公が涙を見せた唯一のシーンでもある。南の行動がセナにチャレンジさせ、長いお休みを終わらせようと決意するきっかけとなった。


【誰も必要とせず、誰からも必要とされない】ことは楽。本当に傷つくことはありません。

だからちょっとした優しさとちょっとした自己犠牲で自分も相手も丸く治めることができる。自分の殻からは出てきません。出てもいつでも殻に戻れる姿勢なのだから楽チンです。

結局セナにとっての今までの人たちは【必要でない人】たちだった。だからセナは今まで誰からも【必要とされなかった】。

そんなセナの決して相手に踏み込まない受身のままの恋愛が、涼子(松たか子)との恋愛シーンで描かれており、結局は自分が諦めて、表面上は相手のことを想って丸く治める形で終わる。

表面的には傷ついたようにみえるが、心の奥は傷ついてない。自分の殻からでてみたけどまた戻ってみただけ。セナは振られたけれど決して自分に対してみっともない形、後悔や自己嫌悪につながるような形はとらない。

本来なら涙を誘い感動を呼ぶシーンのはずが「ふーん、そうなんだ」としか思えなかったのは、セナと涼子は子供っぽいおままごと的な恋愛劇でしかなかったからかもしれない。

しかし、南に対しては、セナはいつでも諦めるようでいて、決して諦めていない。いつもは「呼ばれたら会いに行く」受身の彼が、「呼ばれてもいないのに」感情の赴くままに会いに行くような行動をする。

ここでも、必要とする人(南)に対してと、必要としない人(涼子)に対してでは、人はどれほど行動が変わるのかが対比されている。

必要とする人がいると、自分では思ってみないパワーと行動がとれる、というよりも取らざるを得ないということがあらわされている。


南と涼子は大人の女と子供の女の対比としても描かれている。

涼子は、相手に「会いたいから会いに行く」という行動をとる反面、「コンクールがあるから会う時間が取れない」的なことを相手に言う。

最終的には相手に【必要とされない】なら私もあなたを【必要としない】という形で恋愛に決着をつける。

すべてが自分目線でいい意味でも悪い意味でも自分の感情で動く。これは子供ってことです。相手の気持ちがどうなるか考えているようで考えていない。

結局相手の気持ちはどうなっても構わない行動をとる。常に自分の感情優先で、与えられることだけを求める。相手に必要とされることの前に必要とすることが常に優先。

「涼子ちゃんは純粋で心の中が真っ白の雪」とセナは言う。

涼子は子供であるゆえに純粋なまま。だからそんな風に思えてしまうのでしょう。

一方、南に対してセナは「心の中の雪がいろんな足跡で踏まれている」と言う。

心にある哀しさや後悔や切なさやいろんな想い出の跡。

そんな南だけど、彼女は常にセナを思いやることが行動の原則。ケンカをしたとしてもその根底では相手の感情を自分に写しとっている。だから相手の感情を理解できるし、相手を思いやることができる。

【必要とする】前に【必要とされる】ことが先。

相手のために動いて見返りを求めない。

なぜなら、相手の悲しみは自分の悲しみであり、相手の喜びは自分の喜びであるから、見返りなど必要ないのだ。

セナの幸せが自分の幸せだから、南はそれで十分に満たされる。

だからこそ、ラストでセナがコンクールで優勝し大人になって自分の足で歩めると見極めた以上、南は身を引く決心をして、セナに逢わずに会場から消えるのだ。



物語のはじめに戻る。

結婚式当日になぜ花婿に逃げられたのかと南は連日悩み考えていたが、明確な解答を得ることはなかった。

ただ自分は【必要な人】を求めていただけで、花婿には南が【必要とされてなかった】ということはうすうす感じていた。

その一件があってセナに対しては、まずセナから【必要とされるために】という観点で南は考え、「セナのために」という原則で行動していた。


前半から後半にかけては、相手に【必要とされる】ことを理解した南が、相手を【必要とする】だけのセナよりも常に大人として描写されている。

南は大人として、セナに大人を求めても、セナは子供から脱却できないままでいた。セナのことが気になりつつも、完璧な大人のカメラマンに恋をすることでそれが明示される。

いつまでも子供のセナに「疲れてしまった」南の気持ちを癒してくれる、そんな大人の男に魅かれてしまわざるを得なかった。

しかし、それは逃避であり本当の恋愛感情ではない。セナを愛さざるを得ない南、どんなにつらくとも自分を偽れない南。

セナは、南が離れることで初めて南について考え、彼女が離れてしまったことは自分が子供だったからと気がつき、自分に一番大切なピアノを諦めることで大人になろうとする。

セナには無意識的な南への贖罪の念が芽生えていた。贖罪の念は相手の感情を自分に写し取って初めて顕示するもの。彼が大人になりかけている様を暗示的にあらわしている。

ピアノを諦めることを南が阻止したことで、セナは南がいつも自分のことを考えていたこと、だからこそセナの本当の心を彼女がわかっていたことを知る。

彼女が自分にとって【必要な人】であり、これからも【必要な人】であり続ける存在、すなわち『かけがえのない人』であると明確に理解する。

そして、南から【必要とされる人】になろうと決意することで、長いお休みに決別し、はじめて南と同格の大人になる。

人は【必要とする人】が居るだけでは子供のままであり、【必要とされる人】ができることで大人になる決意をし、子供の世界すなわち【長いお休み】を終わらせ、大人として歩み始めるのだ。

「長いお休み」あるいは「青春」とは内向きの衝動であり、自分を中心にして世界を感じる時代。甘くて甘美な世界。

いずれはそれに決別し、現実に立ち向かい、【必要な人を守り】共に歩む決意をする。そして大人として生きていく。

甘くて甘美な世界と決別せねばならない。

だけども、それは決して寂しいことではないのです。厳しいことであるのは確かだけれど、それ以上の喜びがあるはず。

厳しさを恐れて長いお休みにすがったり、青春にこもる必要もないのです。

「必要な人であり」かつ「必要とされる人」すなわち『かけがえのない存在』があれば、人は大人になって、困難に立ち向かえることを、主人公のセナと南を通じてこのドラマは私たちに語りかけている。

リアルタイムで観ていた頃にはそんなこは全然思えませんでした。

このドラマが放映された時代環境は、バブルが終焉し、仕事や経済面での成功に明るい将来が見えない時代の始まりだった。

誰もが漠然とした不安のなか、未来や現実の社会において自らの立ち位置を確保することに困難な想いを抱いていた。そして、このドラマの主人公は二人とも物質的、経済的成功者とは程遠く、時代の波に翻弄される側の人間として描かれている。

不確実で不安な時代だからこそ、人は人とのつながりと自分の想いで未来を切り拓くことができる、そんなテーマと視点により、このドラマは多くの共感と感動を呼んだのだと思います。

必要とする人、必要とされる人、そういった存在がないと、人は諦めることでしか大人になれない。セナがピアノを諦めるシーンです。

諦めることは寂しいけど傷つくことはない。だけどそれで後悔はしないの?と問いかけてきます。

仕事や環境や経済面ではどうにもならないことはあるけど、恋愛は自分しだいでいかようにもなれます。

男の目から写る女を意識するバブル時代の女性像ではなく、自分自身に馬鹿がつくほど素直で正直な南は、当時の多くの女性の強い共感を呼びました。

この頃の女性が選ぶ支持する女優のナンバーワンには山口智子が選ばれていた記憶があります。



М男諸子!あなた達はドミナを必要とするだけでは子供なのですよ。ドミナに必要とされるようになってやっと大人のМになれるのですよ。

子供に帰れる世界だけを求めるのならそれはそれで貪欲にお進みなさい!貪欲にね。
その先にも何か見えるかもしれませんから。

これはもちろん自分にも翻って刺さります。

相手を求める事はもちろん必要です。だけれど困らせることだけではない、、、素敵な大人ってバランス感覚をいかに身に付けているかということなのかもね。


繰り返しますが、南は【必要とする】前に【必要とされる】ことが先にきました。相手のために一生懸命に動いて、その行動には見返りを求める心はありません。

ですから、彼女の行動は滑稽なようで、視聴者にはとてもすがすがしい感情、応援したい感情を喚起したのでしょうね。


【必要とすること】が先に来て、【必要とすることだけ】考えている人間はエゴ丸出しで醜いものです。エゴが行き過ぎるといわゆるストーカーになってしまったりもする。

ストーカーは行き過ぎですが、子供のころにはこんな過程はつきもので、これで痛い目にあって学んで大人になっていくのですね。

エゴ丸出しの快楽の甘美な誘惑に誘われ、行くとこまでいって私も学んだ事がいくつかあります。
未だに時には誘惑に乗ってしまいますが。


大事なものは失うと痛い。しかし大事なものは見えにくい。

失う前に一瞬一瞬を大切にしたいと切に願います。
13a.jpg
[ロングバケーション]の続きを読む
  1. 2010/03/22(月) 02:56:35|
  2. シネマの抜き足差し足忍び足
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

私のニューアイドル

谷ナオミ!!!

どこがニューなんだ!!
ええ、全然ニューではないの(むしろオールド)だけれど、、、。


最近エロティックシネマを乱雑に鑑賞しているのです。
借り過ぎて延滞しまくり。

その中でベストだったのが↓
谷ナオミ

団鬼六「黒い鬼火」より 貴婦人縛り壷

やっぱり日本人はロマンポルノを見なくてはだめだろう。
その昔少女の私に『色情メス市場』というこちらも素晴らしい日活作品をみせて下さった、老紳士は語ったものでした。

お元気かしら。。


そして、この『貴婦人縛り壷』を観終わった私は、もうほとほとぐったりしたのでした。

それほど突き動かされたのであります。
正直ワタクシAkihoは団鬼六先生の世界、映画のみの踏み込みしかいまだありません。
ですが、ですが、、、これは心臓をっんぐぐっと鷲掴みにされました。

ナオミ姉さんを恥辱の極地へと陥れる、熊男のような旦那のいたぶりに
私はSMという、愛の形の神髄を見せつけられた気がいたします。
なぜに歪んだ性愛は、直球の本能を呼び覚ますのでしょうね。

きれいごとなんかいらないのよ。
しつこくって、汚れてて、必死に貪ってこその人間の美しさ。

なので、私も心に熊男を住まわせる事にいたしました。
ドミナAkihoという皮をかぶった熊です。
どうぞよろしく。
.
.
.
詳しくはご覧になるがいいわ。

とにかく、いい人間がまったく出てこないのが素晴らしい。
私、正義の味方がヒーローの映画って大嫌い。

サド文学もいいけれど、やっぱり鬼六様を学ぶことにしました。


そして、ナオミ様はいづこへ。
その白い肌、、、押し倒したい。



  1. 2009/06/18(木) 01:26:36|
  2. シネマの抜き足差し足忍び足
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1

間違ってもよいこと 

昨日の出来事。
ゴダールを借りるはずが、
なぜか松本人志の『大日本人』を手にレンタルビデオ屋さんを後にした晃穂。

これから、フランス語の学習に励もうと企んだにもかかわらず、思わず普段は表面上にはあまり顔を出さない愛国心がひょっこり、邦画コーナーにて出現。
小さく心の渡仏挫折。
が、それもまた良しあし。

so soという意見ばかりが耳に入っていたため、以外と良い印象。
期待しすぎず、気負わず出くわす驚きが小気味良い。
日本の意地と刹那の気配が漂う。
次回作はもっと面白い予感がする松本監督。

賛否両論あった中、映画らしくない展開と、パロディの手法、ひっくるメタ発想に深く頷く。
アイディア勝負の出来る人。エーガ界に染まらないでおくれ。
私はパロディが好き。
これは上手な人の特権!!

人間の関係に正統なんて代物があるのは幻想だと疑ってもいい。間違わずには辿り着けない。
でもカテゴライズにこそ宿る誇りもある。
パロディでも何でも楽しめる、込み入った関係になりたいね。

抽象的にて御免候。
では、また。





  1. 2008/02/02(土) 03:27:46|
  2. シネマの抜き足差し足忍び足
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:5